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「はしがき」より

 わたしは少年の頃からキリストの言葉にひかれ、やや成長するに及んで、自分の生涯を彼にささげようと誓いました。
 この本の内容は、わたしの好きな聖書のみことばのいくつかをめぐって見解を述べたものであって、それは聖書の注解書でもなければ、れっきとした神学書のたぐいでもありません。誰でもが気軽に、どこからでも読めるように、心を配ったつもりでしたが、内容が内容であるだけに、(かなり宗教的な内容であるだけに *管理人注)幾分か困惑される読者のかたもあるかも知れません。特に キリスト教や聖書になじめないという方のために、おすすめしたいと思っております。この本を通読することによって、キリストの与えようとする最も大切な精神的宝に開眼されることを、今は静かに祈っている次第であります。

1976年2月11日、ルルド聖母出現の記念日
湯沢台の聖母の丘において

著者(トーマス・アクィナス安田貞治神父)

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第五章:招かれているのに・・・[3] 

天国は、あたかも十人のおとめが、それぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮深いものであった。思慮の浅い者たちは、あかりを持っていたが、油を用意していなかった。しかし思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に油を用意していた。(マタイ25・1~4)

 この頃は天国という言葉が、一般にもよく用いられているようです。何でも楽しいこと、喜ばしいことが一杯あるようなところ、浮世の苦しみや憂いを忘れさせてくれるような環境や状態をさして、この世の天国などと言っているわけです。たとえば子どもがすべてを忘れて遊びに没入できる場所を「子ども天国」などと言うのも、その一つでしょう。そこには何とも言えぬ無邪気な、汚れのない楽しみの表徴が見られるような気もするのです。
 キリストが述べられた天国とは、一体どんなところなのでしょうか。それは言われるように、本当に人間の死後につながる幸福な、憂いも悲しみもない永遠の国なのでしょうか。それはとにかく、もしそういう天国が真実にあるとすれば、それは誰でもが向かうべき人生の旅の終着駅であるのですから、決してゆるがせにはできない事柄だと思われます。どんな人も生まれてきた以上は、いや応なく死に結びつけられているのですから、わたしたちの未来が天国につながるとしたら、人の生死もまた希望に変わるでありましょう。
 ところで、冒頭の聖書のたとえ話に出てくる思慮の浅い者、あるいは思慮のない生活とは、どんなことを指しているのでしょうか。いつか知人の人類学者の「ニューギニア・ピグミー探検」という本を読んでいましたら、次のような記述があって興味をひかれました。著者が土人たちの家に宿泊した時のこと、日中の温度は高くても、標高の高い山地では夜は相当に冷え込む。著者たちは寝袋に入って寝たが、裸同然の土人たちは寝具もなしにそのまま寝てしまう。子どもは咳をするし、夜がふけるにつれて赤ん坊は火のつくように泣き出す。しかし乾草の上に寝ている母親は、どうして子どもが泣くのかも理解できないらしい。この土人たちは何万年か何千年も前から、このような原始的生活をつづけている。身にまとう物をつくるとか、何かの方法で暖をとる工夫があったら寒さを防ぎ、快適な生活もできるのに、改善を考えようともしない。この思慮をまったく欠いた彼らの生活が、今もって野蛮の域を脱し得ない理由であることを著者は指摘し、ものを考えることのできる人びとと、そうでない人たちの生活では、同じ人間でありながら、こうも文化非文化の距離が開くものかと、嘆いておりました。わたしたちの今日享受している文明も、幾千年にわたる祖先の人たちの思慮を、遺産として受けついだ生活の知恵であることを思わずにはいられません。そして日常の生活においてすら、思慮のあるなしが、かくも人間の幸福を左右するものとすれば、ましてや自分の人生の終着駅が何であるかについては、一層すぐれた知恵が必要でないかと思われるのです。
 このごろはよく若い女性が、自分の生んだ赤ん坊をゴミ箱に捨てた、というような新聞記事を見かけます。ある評論家は慨嘆して「子を捨てるような母親は動物より劣れるものだ」と書いていましたが、作家のなだ・いなだ氏はこれについて、次のような見解を述べておりました。「母性を美化してきたところに、果たして問題はないでしょうか。母性というものは非常に本能的なものであり、動物的なものです。そしてそうであればあるほど盲目的なものです。だから、より先天的なものということができるでしょう。つまり人間は裸で本能的であれば、当然そのような行動をするということです」つまり、思慮を欠くとき人間は本能的になり、従ってその行為も動物的になる、ということでしょう。理性の正しい判断を必要とするとき、それを欠いた人の行為は、往々にして獣的になりがちなものです。それも、日常のごく些細なことなら笑ってすまされるでしょうが、ことが人間の永遠の目的や、幸福を左右する大問題となれば、誰も真剣に考えなければならないのではないでしょうか。
 キリストが天国というものを、花婿を迎えるおとめになぞらえて教えられたのも、そこに人の思慮の有無が、大きく関与するものであることを示されるためでした。たとえば一般に結婚する前の女性にとっては、どんな男性を相手に選ぶかによって、幸不幸が分かれるとよく言われます。その場合、思慮のある者とないものとでは、おのずからその相手の選択も異るでしょう。この世に生きる知恵についても、聖書の言葉のように五人は愚かで、他の五人は賢いものであるかも知れません。ここでキリストは「あかりを手にしたおとめ」と言っているのですが、それはどういうことでしょうか。どんな人もこの世に生まれてきて、人間としての生活を営むかぎり理性の光、知恵の働きをもって生きています。いわゆる生活の知恵と呼んでいいものでしょう。しかしそれだけでは永遠の喜びの国、すなわち天国を意味する花婿を迎えるには活力が足らず、やがて肉体の生命が燃焼して死を迎えるとともに、それは消滅を免れません。自分の理性の判断、いわば現世的な思慮にのみ頼って、いかに高い文化生活をしてみたところで、それはこの世限りのものにすぎないでしょう。キリストの言われる思慮の浅い者とは、要するにそれ以上の、永遠に対する思慮深さを欠いたもの、ということなのです。
 これに反し、神の言葉によって教えられ、永遠の至高の幸福を信じて生きるものは、なお死後に灯される油のあることを、キリストは比喩的に教えられました。神の恵みである油を器物にたずさえた賢いおとめこそ、真に思慮ぶかいものというべきでありましょう。その油とは、すなわち人の心の中に秘められた信仰のことであります。
 わたしたちは、この世の生活においては、信仰のあるものもないものも、同じように自分の終局である死に向かって生きています。この世では、神を信ずるかすかな光であっても、時がくれば、やがてそれは神の燃える輝かしいともしび、美しい光栄に変わる性質のものであり、それこそ永遠の喜びの花婿を迎える幸福に、つながるのです。天国というものは、目で見ることのできないものであるために、キリストはこのような賢く、思慮ぶかいおとめにたとえて、教えられたものと思われるのであります。
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第五章:招かれているのに・・・[2] 

天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はそのしもべたちをつかわして、その婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたがその人たちは来ようとはしなかった(マタイ22・1~3)

 最近は日本人の生活も全般的に向上し、ある程度物質的な余裕もできたせいか、昔と違って“生活を楽しむ”ということが、一つの美徳のようになっているようです。今日では、そういうことを生きる目標のごとく思い込んでいる人が、相当に多いことも疑う余地がありません。しかし、だからといって、それですべての人が幸福だともいえませんし、かえってその日が、苦しみの連続だという人も、決して少なくないのです。
 このごろはまた、日本の社会では、キリスト教固有の言葉が、無造作に使われていることが、少なくありません。たとえば洗礼とか、天国、地獄といった言葉がそれであります。手近なところに例をとれば、子どもたちが自由に遊び楽しめるところを”子ども天国”と呼び、泥棒やかっぱらいが大手をふって通り、きびしく法律で罰せられることもないようなところを”泥棒天国”といったりします。賭博を自由に楽しめるモナコのような国を”賭博天国”と呼んだりするでしょう。このような意味で作り上げられた天国のイメージというものが、自由という点を除けば、キリストの教えた天国の意味と、だいぶ違うことは、いまさら言うまでもありません。
 わたしたち日本人の中には、天国や地獄という言葉を、安心立命のための仮説とみなし、あるいは信仰というものを、あたかも無知の妙薬のように考える傾向が、あったように思われます。そして現代の多くの人びとは、死後の世界などはもともと無いのであって、人がそれを実在として信じることは、無益であり、迷いであるとするのです。しかし、それを否定してみても、心の中には何かうしろめたさや、暗い影が残るのではないでしょうか。だから神を否定し、天国や地獄を迷信だと主張する人々が、実はかえって、自分の否定する地獄の幻影に悩まされているように、わたしには思われてならないのです。
 彼らは時に宗教の経典をあさり、聖書を読んでみたりもするのですが、結局、自分の理性に納得がゆかないからといって、否定してしまうのが落ちでしょう。しかし神とか天国というものが、実在するかどうかは、わたしたちの理性の能力だけで、知れるものではありません。むしろ理性の限界をこえる超越的実在だというべきでしょう。つまりそれは、信仰によって得られる知識であって、思惟や感覚によって、とらえられる世界ではないのです。たとえば聖書にあるパウロの、次のような確信にみちた証言を、簡単に否定して済ませられるでしょうか。「わたしはキリストにある一人のひとを知っている。この人は十四年前に第三の天国にまで引き上げられた。そして口に言い表せぬ、人間が語ってはならぬ言葉を聞いた」(コリント後書12・2)
 パウロが生きながら体験した第三天国はともかく、人生という旅の終局に、天国という言葉で表わされる神との合一による至福を、みつめながら歩むのと、虚無の暗黒をみつめながら歩むのとでは、おのずからその生き方も、ものの見方も異ってくるでしょう。希望ある人生か、それとも刹那の楽しみを求め、その幻影に裏切られて老いゆく人生か。わたしたちはそのどちらかを、選ばなければならないのです。もし天国が実在し、それが神を信ずる者に約束された至福であり、わたしたちがそれに呼ばれているとするならば、この物質万能と享楽謳歌の時代に、満たされぬ思いを抱く人びとは、もっと耳をすましてキリストの言葉を、聞くべきではないでしょうか。
 ところで話は変わりますが、近年子どもの音楽教育が盛んになり、多くのお母さん方は、子どもにピアノやバイオリンを習わせているようですが、有名な鈴木バイオリンの教え方には、次のような三つの主要点があるといわれています。その一つは「子どもが心からバイオリンに興味をもたずにはいられない雰囲気をつくり出し、決してモーツァルトのお父さんのような強制的なやり方をしないこと」だそうです。これなどを見ると、現代のわたしたちの生活の中には、天国について興味を抱かせるような雰囲気が、まったくないといわねばなりません。おとなたちの頭や心は、そこには向かわず、あまりにも現実の事物に関心を集中しています。永遠への希望もなければ、夢も欠如しているといっていいでしょう。これでは天国への道は、まったく開かれていないといえます。
 鈴木方式の第二の特徴は「初めからバイオリンを与えることをせず、最初の曲をさんざんレコードで聞かせて頭に入れてしまうこと」だといいます。これなどもバイオリンの曲に慣れさせ、そこに流れている美しさや喜びの基本線を作ることが、大事だということでしょう。子どもの心に、まず美の意識を呼び起こすことなしに、彼らの本来持っている能力を目ざめさせ、目的に向かって開発することは、できないに違いありません。ちょうどわたしたちが、聖書を読むことなしには、パウロのような、天国へのエロスも起こりようがなく、その能力はあっても、すでに現世的な知識や事物によって、伸びるべき芽が、つみ取られてしまうのと同じです。果たしてこれで、人間の正しい生き方や、生きることの意味を悟ることができるものでしょうか。
 さらに鈴木方式の第三のポイントとして、子どもにバイオリンへの興味を目ざめさせるには「たくさんの子どもたちが、バイオリンを楽しそうにひいているところへ、何度も連れて行き、どうしてもバイオリンを自分がやりたい気持ちを起こさせる。そしてどんなに先へ進んでも、必ず最初の曲まで常に後もどりをして、くり返させることも大切」とされているようです。これも現代の人びとが、宗教に関心を持つための一つの機縁として、おおぜいの人たちが、希望と信頼と愛のハーモニーを奏でている場に立ち会うことの必要を示唆するもの、といえましょう。
 現代の人たちは、教会という場所とは、ほとんど無縁な生活をしています。おそらく一度もそこへ足を踏み入れることなしに、一生を終わる人が多いでしょう。これはなんとも残念なことであります。地上の教会は、もちろん天国そのものではありませんが、みんながそこを目ざし、天国を知り、希望するものの喜びの集いであることは確かです。それは天国における、神との合一の至福を垣間見せる機縁となるに違いありません。
 聖書にあるように、天国が幸いな「婚宴」であり、親しき交わりの表徴であって、しかもすべての人がそれに招かれているのに、これを拒否する人が多いのは、一体どうしたことでありましょうか。

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第五章:招かれているのに・・・[1] 

二人の弟子は、洗者ヨハネが「見よ、神の小羊」というのを聞いて、イエズスについて行った。イエズスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた「何か願いがあるのか」彼らは言った。「ラビ(先生)どこにおとまりなのですか」イエズスは彼らに言われた。「来てみよ、そうすればわかるだろう」(ヨハネ1・35~39)

 右の一節は、キリストと弟子たちとの最初の出会いを述べたものです。一見それは偶然のめぐりあいのように見えますが、しかし彼らも、ただ自然のなりゆきに従ってキリストと出会い、彼を自分たちの生涯を支配する人生の師と見きわめるようになったわけではありません。その当時、予言者と呼ばれ、人びとの尊敬をうけていた洗者ヨハネの「見よ、神の小羊を」という言葉に動かされて、キリストのところへ近づいて行ったのであります。
 そのころのユダヤ人の間では、神の小羊という言葉は特別の意味、ニュアンスをもっていました。それは人びとの救いのために、神に献げられる清いいけにえの小羊である、ということでしたが、それまで、ひとりの生きている人を指して使われたためしはなかったのです。イエズスがはじめて、洗者ヨハネによって「小羊」と呼ばれたことに、二人の者は気がつき、驚きをもってその人を注視せずにはいられませんでした。彼らは自分の魂の師を求めていたからです。ただ、洗者ヨハネからそれを指示されただけでは、まだ十分に納得ができなかった。自分たちの目で、その人物がほんものかどうかを確かめてみたかったのです。
 この心理は、今日のわたしたちの場合にひき移してみても、自分の人生の師と仰ぐ人は、そうたくさんあるはずはなく、他人の紹介だけではどこか物足りなく感じ、自分の目で見、耳で聞き、また自分の手で確かめてみなければ、わたしたちは安心して自己を託することができないでしょう。
 キリストのもとに近づいた最初の二人も、さまざまな先入観にとらわれることなしに、彼のナマの声をそのまま聞こうとしたのがよかったのです。もし彼らが、当時の律法学士やパリサイ人たちのように、イエズスをナザレの出身地や大工という職業というものによって、見くだすようなことがあれば、ついにめぐり会いは起こらなかったでしょう。
 イエズスは、自分のところにやってきた二人の者に対して「何か願いがあるのか」と尋ねておられます。この言葉は、キリストと最初に出会う者にとって、千金の重みがあったと思われます。今日のわたしたちでも、誰かとの最初の出会いに、心の底までひびくような言葉を聞くとき、一生涯消えることのない印象を残すでしょう。
 ところでキリストの「何か願いがあるのか」という言葉は、単にこの二人の弟子に語られたばかりでなく、キリストに近づこうとするすべての人、今日のわたしたちに対しても、親しく語りかけられた言葉であるに違いありません。してみればわたしたちが、どんな願いをこめて彼に近づくかが、キリストとの出会いにおいて、たいへん重要になってくるのではないでしょうか。
 そのときの弟子たちの願いは、どう見ても単純なものでありました。「先生、どこにおとまりなのですか」それに対してキリストは「来て見よ」と言って、彼らを案内して行き、その日はそこにとどまった、というのです。それ以外のことは聖書に何も記述されておりません。言ってはいけないことがあるようにも受けとれます。しかし、聖書を読んでいると、たびたびそのようなことがらに出会うのであります。神と人間との、深い意味での出会いというものがあるとすれば、それは神を見つめる心の秘密であり、神のみが知り給うことでありましょう。
 先に上げた二人の者が、この出会いによって、キリストの最初の弟子となった、という結果から見れば、わたしたちの知ることのできない、何か特別の対話が、そのあとにつづいたということは十分想像ができます。その対話を通して、彼らはキリストの本当の姿にふれたのではなかったか。
 聖パウロはキリストの本当の姿を、つぎのような言葉で表現しています。「キリストは本性として神であったが、神とひとしくあることを固守しようとはせず、かえっておのれをむなしうして、しもべのかたちをとり、人間の姿になられた。そのありさまは人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であった」(フィリッピ2・6)
 キリストの人間たる姿の中に、神の姿を見いだすことは、単なる外見の判断だけによっては得られません。それはパウロのように、キリストの人格の内部まで、わたしたちの心の目が浸透しなければ、得られないものでしょう。キリストの精神生活の中に招き入れられて、はじめて悟り得る真理なのです。だとすれば、キリストとの心の対話ほど重要なものはありますまい。そこにとどまることをゆるされたかの二人の弟子こそ、人間の救いがなんであるかを、ほんとうに悟ったものであり、それゆえに最初の弟子ともなったのです。
 今日に至るまで、全世界にキリストのあとを慕うものは絶えません。それらの人びとは、すべてこのような対話、出会いによってキリストを師とし、そこに彼の救いを見いだしたのではなかったか。このへんの機敏を亀井勝一郎氏はつぎのように述べております。「どんな信仰の場合でも、人師との出会いが決定的な意味をもつことを知るに至った。経文、聖書自体にめぐりあうことが根本だろうが、それを伝えてくれる“生ける師”の印象ほど深く心に残るものはあるまい」

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第四章:アヴェ・マリア・・・[8] 

もしもあなたがたが、人びとのあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、なたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう。(マタイ6・14~15)

 わたしたちが、誰か他人を愛するという場合、その人が自分にとって好きだから愛する、というのが一般ではないでしょうか。反対に、自分にとっていやな人は愛せない。それは自分の好みや意志にさからい、自分の感情に合わないものであるからでしょう。このように、わたしたちの愛の行動の原理を調べてみると、多くの場合、人間の自然の性情が基準になっていることがわかります。日常、わたしたちはそれによって、愛する人を作ってみたり、また敵を仕立てていることが多いのです。しかし、愛がもし、このような自然の衝動にのみ従うならば、それは本能によって生きる動物と、大差ないことになりはしないでしょうか。人間が動物よりも優れているのは、むしろそのような自然性をのり超えて、人を愛せることにあるのではないかと思われます。だとすると、一体そのような愛は、いかなる原理によって可能となるでしょうか。
 愛の定義の中に、人は隣人を価値あるかぎりにおいて、これを愛する、という言葉があります。たとえば昔から、かよわい女性には勇気ある男性、男らしい男が最も好ましく映ったでしょうし、そういう男性に多くの女性が、憧れを抱きもしたでしょう。このごろの若い人たちの間では、カッコいいことに憧れる、といった風潮がかなり一般化しているようですが、しかし単なる外見だけのカッコよさに、それほど愛される価値があるかどうか。それは別問題として、男性は男性で昔から、女性の中にあるやさしさや貞潔、こまやかな心づかいなどを求め、そのために女性を愛してきたことも確かです。このような観点からみると、人は相手のうちに実在する価値ゆえに愛する、というのが愛の本性ともいうべきものであって、いかなる価値も存在せず、その可能性さえもない場合、人は他人を愛しえない、ということにもなりそうです。
 しかし、そうするとつぎに、では何を価値とするか、ということが当然、問題になってくるでしょう。もし容貌や才能や財力のようなものを人間の価値とするならば、そういうものを持たない人は、愛される価値がないことにもなりかねません。たとえば知識がある、ということも一つの価値であり、このごろの風潮では、知識のある人ほど偉くて、その反対は無価値、とまでは言わないにしても、お気の毒といった傾向が強いのですが、しかし本当にそうなのでしょうか。評論家の石垣純二氏はこう言っています。「知識は、人間の持つ才能のごく一部でしかないのに、知識の量で人間の尊厳をはかろうとする功利主義的な教育観が、教師にも父兄にも、いや社会全体にひろがっている。それが現代の日本の状態なのである」
 たしかに、知識も一つの価値ではありますが、唯一の価値ではありません。もしそれが人間の価値をきめる基準だとすれば、あまり出来のよくない子どもを持った親や、教育者は、どうしてそういう子どもを愛せるでしょうか。キリストは「全世界を手に入れても、もし魂を失ったら、何の益があるだろう」と言われました。つまり全世界にも匹敵する魂の価値において、人間の尊厳を強調したのです。ここにキリストの倫理観の土台がある、といってもよいでしょう。美貌でもなく、肉体でもなく、才能や財力でもありません。神から与えられ、キリストにあがなわれた魂のゆえに、人間は尊いのであり、すべての人は愛に値するのです。神の愛が無差別なのも、そこに理由があるのでしょう。『大地』で有名なパール・バック女史は、精薄の娘をかかえ、アメリカ中の良医、名医を求めて遍歴しました。女史の『母よ嘆くなかれ』の中には、つぎのような言葉があります。「私は自分にこう言い聞かせました。この魂もまた、完全に成長する権利をもっている。あるいはほんの少ししか発育しないにしても、その権利は誰の権利とも変らないはずであり、覚えられることを覚える権利を認めないのは間違っていると」そして「娘は私に、人間とは何であるか、ということを教えてくれた」というのです。アメリカの知性を代表する女性の一人であり、愚かしいということが大嫌いであった女史が、精薄の娘をもって始めて、人間とは何であるかを教えられた、というのです。これは先にも述べたように、全世界より重い魂の価値を認めずには、到底できないことではないでしょうか。
 キリストは弟子たちに向かって「心をつくし意をつくしてあなたの神を愛しなさい。同様にあなたの隣人を、おのれのごとく愛しなさい」と教えております。自分の好きなものだけを愛するのは、誰にでもできることなのです。それは自然の性情だから。しかし真の人間愛は、自然の性情を超えたところに成り立つことを、わたしたちは知らねばなりません。たとえば自分の夫や妻を愛し得ない人が、未開の国民を救えといっても、空疎なひびきしかもたないでしょう。その意味で、愛はゆるしを前提としている、ともいえます。「七度を七〇倍するまでゆるせ」とキリストは教えましたが、神は人間を無差別に愛し、悔い改めるものには何度でもゆるしてくださる以上、人が人の罪をゆるさぬというのは、高慢以外の何ものでもありません。
 「あなたがたが、人びとのあやまちをゆるすならば、天の父もあなたがたをゆるしてくださるであろう」このことは、わたしたちが愛されるためには、わたしたちの魂のうちに、神のみこころを動かすような、何らかの善を生むことが必要であり、それは人をゆるすことだという教えでしょう。相手のあやまちをゆるすことによって、わたしたちの心のうちには、新しい愛の目ざめが生じてくるでしょうし、わたしたちを苦しめ悩ませる愛情の葛藤も、多くの場合それによってのり超えることができるでしょう。
 人をゆるすということは、いうまでもなくやさしいわざではありません。しかし、それをなしうる人には、神の恵みである平和が、確実に与えられるでありましょう。

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第四章:アヴェ・マリア・・・[7] 

すべて重荷を負うて労苦している者よ、わたしのもとに来なさい。あなたがたの魂に安息を与えよう。(マタイ11・28)

 わたしたちが今日、漠然と描いている幸福のイメージはどんなものでしょうか。それは多分、なんの心配もなく、憂いもなく、家族揃って平穏無事のうちに、その日その日が過ぎていくという、いわゆるマイホーム的な理想ではないでしょうか。一見そうした生活は、まことに安泰で、結構な生活であるように見えます。けれども人生というものは、そう思いどおりにばかりいくものではありません。事実は絶えず何かの心配があり、憂いがあり、恐れがあるものなのです。じっさい毎日平穏無事の生活を送っているように見える人びとの間にも、時として案外ドス黒い悩みが、オリのようによどんでいるのではないでしょうか。
 いつか新聞の身の上相談の担当者である女流作家が、つぎのような感想的結論を発表しておりました。「生活にもさして困らず、夫に愛されて水いらずのアパート住まいの妻、などという人から『ときどき何もかもイヤになります』『私は不幸です』『やさしくされたらよけい憂うつです』などという悩みがよせられる。ぜいたくだと言ってしまえばそれまでであるが、ご本人たちの漠とした不満や憂うつは、かなり根深いらしく、その悩みの根源をたずねると、そのひと個人のはるかな半生の歴史や、衝動的な事件をゆすぶり起こさねばならないようなものらしい」
 かりに物質的に満ち足りた生活をしていたとしても、精神的には人生の重荷ともいうべきものが、その身にどっかりとのしかかっていて、心の安息を得られないことが少なくありません。それはちょうど悪い夢でも見ているように、人の心のスキ間に忍びよるのです。
 前掲の「すべて重荷を負うて労苦している者よ」というのは、だから必ずしもある特定の人びとに限ったものでなく、むしろ今日の社会に生きるすべての人びとを指している、と解してもよいでしょう。人は誰でも明日の運命について知らないし、毎日の交通事故数を見ただけでも「一寸先はヤミ」のことわざが、意外な実感をもって迫ってくるのです。また人生航路の途上、思いがけない困難や苦しみに会うばかりでなく、わたしたち自身が、なんのために生きているのか、働く意味や生きることのほんとうの意義は何なのか、と問うてみるとき、だれでもが心のうちに、空虚なスキ間風を感じるのではないでしょうか。
 先日も新聞の投書欄に、一女性のつぎのような意味の感想文が出ていました。「余暇を利用して洋裁、お花、料理、速記、コーラスなどを学んだ。そのうちいくつかはものになったし、外国旅行もできた。貯金もしたし、多分あとで悔いることはあるまい。私はそう確信していた。けれども今、家庭に落ちついてみると、八年間がただ空しく過ぎてしまったような思いにかられる。その一番大きな原因は、一番長い時間を費やしたはずの仕事が、何一つ重みとして残っていないこと、そしてただ、ガムシャラに学んだものさえ薄っぺらな層を作って、私の表面をつくろってくれているにすぎないことにあると思われる。大社会の温室的生活は苦しみも悲しみもないかわりに、無気力なシアワセを求めるような人間を育ててしまう。こんな中で自分の一生を貫く強い信念をもたず、目の前のものに目標をおいたことは、私の大きな失敗だった。今の私には、もっと深い労働の尊さ、生きることのすばらしさが少しもわかっていないのではないかと思われる」
 わたしはこの誠実な反省に心をうたれました。ここには現代人の心に潜在している普遍的な悩みがあるようです。主婦でもサラリーマンでも、ある瞬間、ふと自分の心をふりかえってみたとき、このような空しさに襲われるのではないでしょうか。今はそうでなくても、何かの機会にそれは露呈されてくるのです。そしてそのとき、自分も重荷を負うて労苦している者の一人だと気づかれるでしょう。
 「わたしのもとに来なさい」とキリストは言いました。「あなたがたの魂に安息を与えよう」しかし、わたしたちはどのようにしてキリストのもとに近づくことができるでしょうか。またほんとうに悩みは癒されるのでしょうか。おそらくそれを解くカギは「信仰」だと思われます。先ほどの女性も述べている「一生をつらぬく強い信念」それの欠如こそ現代人の不安と悩みの根源なのです。わたしたちがもしキリストを信じ、その言葉を受け入れるならば、そのときから、生きることの編みが明らかとなり、真の喜びと魂の安息を見いだすことができるでしょう。なぜなら、キリストは「道であり、真理である」からです。彼は「私は世の光である。私に従う人は暗黒を歩まない」と言っていますが、信仰は人間を精神的に目ざまし、すべての人が向かうべき人生の目標を示すのです。それは神に祝福された永遠の喜びの生命であり、また神と共なる人生であります。この信仰の知識をわがものとすることによって、人は自分のそれまで負ってきた重荷をおろし、キリストによって希望にみちた新しい人生をふみ出すことでありましょう。
 わたしたちの魂は、人生の究極目的が永遠の至福につながることを知り、そこに向かって生きているのだという意識と信念を持たないかぎり、不安や悩みから真に解放されることはありません。キリストが「あなたがたの魂に安息を与えよう」と言われたのは、この希望がもたらす平安であり、信仰にささえられた希望こそ、人間の心に深い平和を与えるものなのであります。

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第四章:アヴェ・マリア・・・[6] 

空の鳥を見よ。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は彼らを養われる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。(マタイ6・26)

 今日、わたしたちは慌しい生活の中で、毎日何かの心配や心づかいをもって生きているようです。政治にたずさわる人たちは、国際情勢や国内の動きに思いをはせ、商売や事業をしている人びとは、それらの繁栄について心づかいをしていることでしょう。また家庭の主婦たちにとっては、毎日の生活と子どもの養育や教育のことで、思い煩うことが多いに違いありません。老人には老いゆく者としての寂しさがあり、青年は青年、若い娘は娘なりに、それぞれの悩みをもって生きているのでしょう。
 こうしてみると、人間というものは、かくも心配や心づかいに責められ、かくも悩まなければ生きて行けないものなのかと、あらためて考えさせられずにはいられません。人は誰でも、例外なく幸福や平和を求めているのに、これは一体どうしたわけでしょうか。わたしたちに、何かが欠けているためではないのだろうか。すなわち、わたしたちの内部に、精神的な確固としたよりどころがないためではないかと考えさせられます。「一寸先はヤミ」という言葉がありますが、人生というものは、そのような不安にみちており、人間が互いに相手を十分に信じられない、というもどかしさから、免れることができないのです。
 ノーベル賞の創始者であるノーベルは、その人間観を、端的につぎのような言葉で述べております。「人間というものは、未熟で、平和を受けるに値しないのですよ。どの人間の中にも、野獣、悪魔、蛮人といったものがひそんでいます。なかには善意の人びともいますが、いてもまるで子どもみたいに弱い存在なのです。要するに平和なんて、この世にはすこし高尚すぎるものなのです」
 わたしたちひとりひとりの中には、強い野獣性がひそんでおり、今日のような競争社会では、それが子どものように弱い善意を圧倒し、だんだんむき出しになってきます。欲望や優越感を満足させるために、どれほど多くの醜い争いや、そのための犠牲者を生んでいることでしょう。そういう社会には、あせりと、とげとげしさと、他人の無視や利己主義が横行し、そのために全ての人が苦しむのです。
 わたしたちの心の中の善意というものは、ノーベル氏もいうように、子どもみたいに弱いものであっても、社会生活や個人の生活に平和をもたらすためには、最も大切なもののように思われます。わたしたち相互の善意と、それへの信頼なしに、平和は決してあり得ないでしょう。イエズスは弟子たちに向かって「空の鳥を見なさい」と言って、おおらかに天の神を仰ぎ見るようにすすめていますが、それはともすれば地上をはい回り、おのれの損得利害から離れ得ぬ心を、暫時そこから解き放つための、知恵の言葉でありましょう。
 あの空の鳥たちは、人間のように「まくことも刈ることもしないのに、天父はこれを養いたもう」と言って、自然の鳥どもの生活のうちに、神の摂理、はからいを啓示しているのです。わたしたち人間の理性の能力、知性の光は、この神の大きな愛のはからいを、自然のうちに読み取るようにならなければ、ついに日々の煩いや悩みから、解放されることができないだろうと思われます。
 わたしがまだ青年のころ、最も心をひかれた聖書の言葉は、この「空の鳥を見よ」という一節でした。この言葉の呼びかけを聞いたとき、わたしの心は無限の空間にかけのぼって、広大無辺な神の愛に呼ばれているような気がしてなりませんでした。
 現代の学校教育においては、神はタブーとされており、したがって、宗教教育もまったく欠けております。そのような、いわば大切なカナメを欠いた教育をほどこしながら、世界人類の平和を求めるといっても、どこかチグハグな感じをまぬがれません。いつか評論家の坂西志保さんが、つぎのように言われているのを読んで、なるほどと思いました。「私はよく、子どもに宗教心を与えたいが、どうしたらよいか、と母親にきかれる。あなたは何を信じられますか、ときくと、家では別に何も信じていない、と答える。宗教心というものは、ビタミン注射などと違って、そう簡単に教え込まれるものではない。また、たとえできたとしても、そのような宗教心が、人の倫理道徳の基準となり、どんな場合にも、正義を選ぶということにはならないであろう。むしろ宗教心は、自然によい環境において学び、自分のうちに完全に消化され、言葉と行為に現われるというのが望ましい。またそうならなければ効果がない、と私は考えている。困った時の神だのみもよい。しかし、祈らなくても守ってくれる神をもち、その道にもとらないように行動するのが望ましい。学校では宗教を教えられないことになっている。したがって宗教心を養おうと思えば、家庭が主となる。何が正しいか、何がまちがっているか、はっきりした基準をもたない今日の社会で、幼いころから宗教の教えによって、自然に倫理感を身につけるのが望ましい」
 キリストはまことの神の存在を、自然界の現象、たとえば空の鳥を眺めよと言って教えましたが、日に日に周囲から自然を失っていく今日のわたしたちは、よい家庭環境の中で、正しい神の考え方や、その存在を学び取らなければなりません。神は全人類の父であり、この共通の精神の場、すべての人の父なる神を信ずる善意の足場なくして、世界の平和もありえないでしょうし、人と人との信頼もありえないでしょう。
 今日の国際関係や、人間関係のありかたを見るにつけても、あまりに相互の信頼が失われ、猜疑心と利害打算に支配され、そのために行きづまりと、苦悩を負っているように思われてなりません。神をもたなければ、人間のなかの野獣性は野放しになるのです。小さく弱い善意が押し殺されてしまうのも、当然でありましょう。神のみまえに、人間は鳥よりもはるかに優れたものであり、神の配慮のなかにあるものなのです。しかし神を尊ぶことなしに、、人間相互の尊重や配慮が、真に行なわれることもあり得ないでしょう。

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第四章:アヴェ・マリア・・・[5] 

「いと高きところでは神に栄光があるように。地上ではみこころにかなう人びとに平和があるように」(ルカ2・14)

 この言葉は、キリストがベトレヘムの郊外の、貧しい馬小屋でお生まれになった真夜中、羊飼いたちのたむろしているところへ、神の天使たちが現われて、歌ったものだといわれております。
 今日のわたしたちが、いちばん求めているものは何かといえば、それは言うまでもなく平和でありましょう。このことは一見矛盾とも見えますけれども、じじつ世界のいたるところで、今日人びとは平和を求めて戦っているのであります。最近ある人がわたしに書いてよこされた手紙の中に、つぎのような一節がありました。「いまの日本人の一番希望しているものは『平和』です。いかにしたら『平和な家庭』『平和な社会』『平和な国』でありうるか、それは当然政治につながるものでありますが、同時に宗教とどのようにして関連させることができるでしょうか」
 現代のわたしたちが、いま必死になって平和を求め、それを守ろうとしていることは確かですが、おかしなことに、世界の人びとがそれを求めれば求めるほど、逆に平和は遠のいていくように見えます。まさか遠心分離の法則に従っているわけでもないでしょうに、一体これはどうしたわけでしょうか。
 多くの人びとが信じているように、平和というものは果たして物質の豊かさや科学技術の進歩発達によってのみ、招来しうるものかどうか。わたしたちは今日、物質的には非常に豊かな社会に住んでいます。しかし心は何かそこに安住できないものも感じているのではないでしょうか。新たな渇きが、何か満たされない不満が、心の底にくすぶっているのではないでしょうか。
 にもかかわらず、多くの人びとが追いかけているのは物質であり、気晴らしであり、官能の満足なのです。しかしそこから得られるものは結局、むなしさと疲労と焦燥にすぎないでしょう。さきにもあげた作家の石川達三氏が、現代文学の性欲描写の氾濫について、つぎのようなことを言っておりました。「愛欲場面はいくら露骨にしても、案外単純な、わかりきったものなんだ。人間の真実なんてそんなところではつかまえられないよ。肉体からも何も出てこない」
 それはちょうどわたしたちが、物質や官能の世界から、人間本来の魂の渇望である平和を求めても、何も出てこない、ということにつながっているようです。物質や官能の追求は、人間の欲望の渇きをかきたて、一時的には満たしえても、もっと深い魂の渇望をみたし得ないことは、言うまでもありません。求める平和はいよいよ遠のくばかりでありましょう。
 クリスマスの喜びの歌は、人がその意義を知ろうと知るまいと、その季節ともなれば、全世界の人びとの心に、やさしく語りかけます。天使の言葉は、静かな夜に貧しい羊飼いたちに告げられた、神の子キリストの誕生を祝う最初の歌声であり、また善意の人たちにおくられた平和の告知でありました。「グロリア・イン・エクチェルシス・デオ」(天には神に栄光あれ)と。それは天国の最も高いところの神に、無限の光栄が永遠に輝きわたっていたように、この地上の暗闇に住む人間にも、平和の恵みが訪れるようにとの意味であります。
 わたしたちの地上の平和というのは、先にも申し上げたように、単なる物質の豊かさや肉体の快楽によってもたらされる、一時的なものではなく、わたしたちの魂を奥底から充たす深い平和であって、それは神の賜である天よりの恵みによって、清らかな永遠の喜びに参与することなのであります。キリストは最後の晩さんのとき、弟子たちに向かって「わたしはあなたたちに平和を与える。しかしそれはこの世が与えるようなものではない」といわれましたが、これこそ、いま言った人間の魂に与えられる深い喜びと平和の約束でありましょう。
 もしわたしたちが、魂の平和を神から与えられるとすれば、その恵みの仲介者であるキリスト、すなわち神の子の誕生によって、それは始まったと言えます。では、キリストはどのようにして、わたしたちの心に平和を確立なさろうとしたのでしょうか。
 今日わたしたちが一般に望んでいる平和な生活というものは、ある働きの結果ではあっても、、決して根源となるものではありません。多くの人びとは本末をテントウしているのです。たとえば平和な家庭生活を送るためには、何が必要でしょうか。経済は条件の一つではあっても、原因とはなりえないのです。たとい条件が揃っても、もし家庭のおのおのに愛の精神が欠けていたら、平和な家庭生活というものは望み得ないでしょう。
 このことは人類の平和についても当てはまると思われます。絶えることのない愛の精神が、人びとの心から心へ交流し合うことによって、はじめて世界平和という悲願も、実現の道を得るのではないでしょうか。神の子キリストが第一に説いたのは、愛の教えでありました。人間の第一に努むべきことは、魂をつくしての神への愛であり、これに次ぐものとして隣人をおのれのごとく愛せよ、とのすすめでありました。キリストが「汝の敵をも愛せよ」と命じたのは、人間の求めてやまぬ平和が、愛の精神によってのみ確立されることを、啓示したものでありましょう。この二つの愛こそ人間をほんとうの意味で救うものであり、永遠の平和を与えるものであることは疑いありません。
 残念ながら現代の風潮はこれと逆行し、愛さえも物質的欲望にところを譲り、理性をもてる野獣の状態を現出しているのです。平和がいよいよ遠いあこがれとなるのも、ゆえなきことではありません。愛を正しい位置に回復し、平和を取りもどすには、どうしたらいいのでしょうか。キリストの言葉に「汝らわが愛にとどまれ」とあるように、キリストの愛につつまれ、生かされて、はじめて人間はほんとうの愛に生き、それによって確実に平和を手にすることができるのであります。
 クリスマスの本当の意義は、神が人類に平和の恵みをもたらす、第一歩であったことにあるのだといえましょう。

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第四章:アヴェ・マリア・・・[4] 

マルタ、マルタよ、あなたはさまざまのことに心をくばり、思い煩っている。しかし必要なことは少ない。ただ一つである。(ルカ10・41)
 この言葉は、イエズスがベタニアの、マルタとマリアという姉妹の家に立ち寄ったとき、姉のマルタに向かって述べられたものであります。最初この二人の姉妹は、イエズスの足もとに坐って、熱心に主のお話に耳を傾けておりました。二人は主の弟子たちや、他の男たちに煩わされることもなく、イエズスのこの世のものと思われぬ美しい言葉に心を奪われ、すべてを忘れて没入していたのです。
 当時の風習からして、女たちにこのような機会は、なかなか恵まれませんでしたし、また女性に対して、このように心やさしく語ってくれる男性も、めったになかったのです。そのころ、イエズスの言葉を公然と聞けるのは、主として男性たちであり、女は男たちのうしろから、あるいは物陰にかくれて聞いていたものです。しかし、このような風習を無視して、イエズスは男も女も、老人も子どもも、すべての人に差別なく接していました。特にこの世から見捨てられた貧しい人びと、病める人びとにやさしく語りかけたことは、聖書の随所に見られるとおりでしょう。
 ところでこの二人の姉妹の家で、イエズスが何をお話しになったのか。その内容はつまびらかではありませんが、しかし談話の結論ともいうべきものが、冒頭にあげた言葉であったことはほぼ想像できます。「マルタ、マルタよ、必要なことはただ一つである」というのが、それでありましょう。今日のわたしたちが、日常生活の煩らいの中で、ともすれば見失っているただ一つの必要なこと、それは一体何でしょうか。先ごろ亡くなった作家の獅子文六氏は、その遺稿の中で、次のようなことを書いておられます。少し長いけれども引用してみましょう。「死後の私がどうなるのか、考えないではない。私は周囲の眼からは消えるが、私自身が本当に無に帰するのか。人間は自分が無になるということを考えられぬようにできていると思う。だから私も、死後の私を考えるが、死によって一切が清算されるようなものではないと思う。現世における私の一切の“賃借勘定”は、そのまま死後に継続されるだろう。信仰によって死後の安穏を信じる人は勿論幸福だし・・・・・・私は無限の暗黒の中を、無限に落下していく自分を、死後の姿として、若い時によく空想したが、その虚無を好ましく思ったのだろう。しかしそんなことは、若い時の甘っちょろい考えにすぎない。人間は虚無なんて好都合な認識を許されていない。何もわからぬままに死ぬのだが、昔よりは従順になった。もっと従順になって、わが死を迎えたい」
 イエズスがこの二人の姉妹を通して、今日のわたしたちに教えたかった唯一のことは、獅子文六氏の言っている死後の世界、すなわち神の国とその永遠の至福のことではなかったでしょうか。それを知らずに生きて死ぬことは、わたしたち人間にとって最も恐ろしいことのように思われてなりません。死後は虚無だというような自己流の判断で、それ以上ろくに考えてみようともせず、日々を送っている人びとが大部分なのですが、それはわたしたち現代人があまりにも忙しく、この世の思い煩らいに流されているからではないでしょうか。
 もちろん人間の心というものは、この世に生活しているかぎり、どんな美しいこと、素晴らしいことであっても、それをいつまでも継続して追いつづけることは、できないかも知れません。マルタがそのよい例です。彼女はまもなく、賓客であるイエズスを接待しなければならないと考え、すぐに立ちあがって台所の仕事に取りかかったのです。あれやこれやの料理のこと、飲みもののことなど考えると、とても自分ひとりの手ではどうにもなりません。心はしだいにいら立ってくるのです。自分がこんなに苦労して働いているのに、妹ときたら、いつまでもキリストのおそばで神の言葉に聞き入って、立とうともしない。忙しく働くものにとって、この静かにものを考える女のことは、理解できなかったのでしょう。このような場合、多くの人は彼女を非難して、ものぐさとか、時間の浪費、あるいは非生産的などといった言葉を、投げつけるかも知れません。特に現代のような、ビジネス万能、金もうけ第一の世相の中では、神さまのことを考えたり、お祈りのために時間をさく、などということは、なかなか理解されないのです。
 ごうを煮やした姉のマルタは、とうとうがまんできなくなって、イエズスのおそばにやってくると、口をとがらせてこう言いました。「主よ、妹が私だけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」もちろん、イエズスをもてなそうとする、一生懸命な気持ちから出た言葉なのです。しかし彼女の考えは、女性的といえばあまりにも女性的でした。そのサービスはイエズスの肉体にとって必要なもの、すなわち物的なものの配慮についやされていたのです。そのようなようすをごらんになったイエズスは、微笑を浮かべながら、彼女をたしなめて言われるのです。「マルタ、マルタよ、あなたはさまざまなことに心を配っているけれども、必要なことは少ない。ただ一つである」
 それは妹のマリアが選んでいるもの、霊的で、目に見えないけれども実在する神に仕える、ということでした。姉のマルタも妹のマリアも、ともにイエズスをもてなし、これに仕える心にかわりはありません。しかし二人のキリストへの奉仕の姿勢は、あきらかに異っています。一方は外面的で物的な奉仕であり、他方は純粋に精神的なキリストへの奉仕であるといえましょう。この二つの態度の、いずれをより大切にすべきか。この場合、イエズスは後者をより重く見るべきことを教えたものと思われます。マリアは何もしていないように見えながら、実は神の言葉を伝えるキリストにぴったり寄り添い、内面的、精神的にキリストの使命の達成を助け、そこに自らの救いをも託しているのです。
 この世の生活には、見える人間に奉仕する愛のわざもあり、それはそれ自体重要なことは言うまでもありませんが、その前にまず目に見えない神を愛し、これに奉仕するのを第一とすべきことを、キリストはここで強調されたのです。よりすぐれたものは、それ以下のもののために奪われてはなりません。今日、多くの人びとはその第一義のもの、よりすぐれたものを見失っており、そのために人生の目的もわからず、ただ行動だけが先走っているのです。しかし行動は真理に根ざすときにのみ、正しい意味をもち得るでしょう。今日のわたしたちにとって、必要なただ一つのことは、真理の神を知ることではないでしょうか。

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第四章:アヴェ・マリア・・・[3] 

イエズスがこれらのことを話しているとき、群集の中のある女が声をあげ「幸いなことよ、あなたを宿した母、あなたの吸った乳房よ」と叫んだ。(ルカ11・27)

 この聖書の一節は、イエズスがある田舎町で、啞の悪魔つきから悪魔を追い出し、啞がものを言えるようになったときに、起こったことでありました。この奇跡を見た人びとは感嘆しましたが、またそれを疑う者もあって、二つのグループに分かれて対立したのです。その一つは、当時の学者であったパリサイ人、および他の知識人たちであります。彼らはイエズスの奇跡を見て、これは悪魔のかしらベルゼブルによる結果だとしました。しかし素朴な群集にとっては、それが悪魔の力によるのか、神の能力によるのか、いずれとも見定める能力がありませんから、どちらとも判断しかねて迷っていたわけです。
 そこでイエズスは、自分の働きは悪魔の能力によるものではなく、むしろ神の尊い力によるものであることを説明し、最後に、わたしに協力するものでなければ、いつの世になってもこのようにわたしの働きに反対し、非難するであろう、と言われたのであります。
 とにかくイエズスの、神の国の到来についての話は、群集に深い感動を与えました。そこで一人の婦人はそれをきいて感きわまって、あたりかまわず絶叫したのです。「ああ、あなたを宿した母よ、あなたの吸った乳房よ」と。聖書を通観してみて、民衆からささげられた、これが唯一の聖母への賛美の言葉であります。聖母マリアは決して単独で人びとの前に知られ、また各世紀を通じて有名になったのではありません。キリストという動かすことのできない人物、すなわち神の子の存在があっての名誉であり、ほまれでありました。この子なくしてはこの母はない、とも言えるのであります。しかしそれならば、聖母の偉大さも、また世の母親たちが模範とすべきことも、何ひとつ無くなりはすまいか。また、もしそうならば、聖母マリアという存在は、ただキリストによって飾られた一種の人形のようなものにすぎなくなりましょう。
 しかし、言うまでもなく、聖母は単にそのような象徴的存在に限られるものではありません。世のすべての母たちはもとより、あらゆる人びとが学び、模範と仰がねばならない数多くの徳があるのです。その徳のすべてをここにあげることは、時間的にも到底ゆるされませんので、ここでは根本的なものを一つだけ上げてみたいと思います。
 それは何かといえば、信仰の徳であります。むろん一般的に、ただ信仰といえば、日本のような国では、わけのわからない迷信のようなものまで含まれてきてしまいますので、特に女性にとって、正しい信仰を持つということが、大変困難になってくることは言うまでもありません。もともと神は目に見えないものだけに、人はまた誤りやすいのです。しかしここで正信と迷信の区別を説明している余裕はありませんので、話を先に進めましょう。
 とにかく聖母マリアは、ごく普通の女性として、日常の生活を営んでおりました。ただ、人びとに喜んで奉仕するという精神の持ち主であったことは、聖書によっても明らかです。しかし、だからといって、婦徳に欠けるような無節操に陥ることは、まったくありませんでした。聖書を開いてごらんになるとわかりますが、聖母マリアについての記述で、最初に目にとまる個所は、天使からお告げを受ける場面であります。
 ある日突然、マリアは大天使ガブリエルの訪問をうけ、受胎告知聞きます。「あなたは神の子の母として選ばれた。みごもって子を産むでしょう」と。それは普通の人、たとえば今日でいえば、お医者さまから妊娠を告げられる、というようなケースではなく、まったく別種の体験、つまり超自然界に属する天使から告げられたのであります。これはまことに不可解なことであり、人類の歴史をひもといてみても、空前絶後のできごとでありましょう。それが神のお告げだといわれても、このような超自然的なことがらを、精神的にも肉体的にも、わが身に受け止めるということは、よほどの深い信仰がなければ到底できなかったに違いありません。
 そもそも、ひとりの女性が、自分の身に子を宿し、その母になることは、何ものかを信じ、それを受諾するという一種の宗教的自覚がその基底になければ、ほんとうはできないではないでしょうか。単なる好みや名誉心、あるいは老後の安心など、要するに気まぐれや打算の動機によって子どもを産むというようなことは、ほんとうの母親としての精神面が欠けている、と言っていいでしょう。その意味で人の母たること、母性として新しい生命をこの世に産み出すことは、女性にとってまさに神から与えられた最も尊い使命なのです。そしてこの場合、マリアはその最も深い意味で、すべての母性の模範だといえましょう。
 マリアにはすでにヨゼフという立派な婚約者がいたにもかかわらず、彼女がやどすのは、このヨゼフの子ではなくて、神の子であると告げられたことは、おそらく青天のへきれきであったでしょう。うら若いおとめにとって、それは担いきれぬ混乱をまき起こしかねない事態だったはずです。にもかかわらず、マリアの深い信仰は、それを少しもあやまることなく、受けとめたのです。これは実に驚くべきことであり、幸いなことでありました。
 結局のところ母親としての価値は、どんな偉い人を産み育てたかという結果もさることながら、それをまず神から与えられた使命として受けとめる、ということにあるのではないでしょうか。この基本的な心がまえがなくては、ひとりの人間を偉大な使命や目的に向かって育て上げることなど、到底できないと思われます。母親の心に、信仰、希望、愛が大きければ大きいほど、子どもも立派に育てられていくものであります。
 今日、多くの女性たちが、将来どのような母になるかを、みずからの問題として考えているかどうか。またいかなる理想の母性像を抱いているか、漠としてわたしにはつかみかねるのですが、聖母マリアの信仰は、母性の使命とその神秘を解明する一つの鍵を提供するに違いありません。

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第四章:アヴェ・マリア・・・[2] 

三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエズスの母がそこにいた。イエズスも弟子たちもその婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母はイエズスに言った「彼らにぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・1~3)

 わが国ではどういうわけか、キリスト教信者というと、酒やタバコを飲んではいけないんじゃないか、というように受け取られているようです。一体、禁酒禁煙ということは、本当にキリストの教えの中にあるのでしょうか。もしあるとすれば、キリストの教えを信じ、それに従おうと思うものは、当然これを守らなければならない、ということになるでしょう。
 ところがキリストの生活を見ると、弟子たちとともにぶどう酒を飲んだこと、今日の言葉でいえばお酒をたしなまれたことが、聖書のところどころに明記されております。それどころか、奇跡をもって水をぶどう酒に変えられたことが、冒頭の聖書の一節につづいて、詳しく述べられているのです。もし飲んでいけないものならば、それを造り出すのは、もっと悪いことではないでしょうか。
 ところで、きょうの聖書の話しというのはつぎのようなものです。ガリラヤのカナという町に、ある人の結婚式がありました。キリストの母マリアは、親類ということで、お手伝いに呼ばれておりました。イエズスも弟子たちと一緒に招待されて、お座敷でぶどう酒のさかずきを傾けていたのですが、時間がたつにつれて、思いがけないお客もあって、ぶどう酒が尽きてしまいました。このような事態は、今日でも時として起こりうることでしょう。そのことに気づいた聖母マリアは、誰にも相談することなしに、まっすぐイエズスのところへ行って「彼らにぶどう酒がなくなりました」と告げたのです。もちろん、これはぶどう酒を造ってくれ、などという命令であるはずはありません。どうしたらよいか、どうにかなりませんか、という困惑と願いとを含めた言葉であったでしょう。
 さて、わたしがこのマリアの言葉を取上げたのには、つぎのような理由があります。ぶどう酒がなくなったことを告げたマリアの言葉には、今日のわたしたちが、考えてみてよい人生の問題が含まれている、と思われるからです。
 人はよく、人生のうちでも、いちばん幸福な時期は新婚時代である、と言います。「死に至る病」や「不安の概念」を書いた実存哲学者キルケゴールでさえ「なんといっても、人生の最も美しいときは恋愛の最初の時期である」と言っています。たしかに、それは自然が与えてくれる最も幸福な瞬間であり、何の努力も要しないで得られる喜びの時でありましょう。しかし若さや美貌や健康など、いわば自然の恵みを前提とした幸福は、永続しないのが世の常です。蜜月はやがて倦怠期を迎えるでしょうし、恋の喜びは苦しみに変わる。これは金銭や物質によって得られる幸福でも、まったく同じことでしょう。
 それらは時の推移とともに、あるいは何かの拍子に、もろくも崩れ去っていく性質のものだからであります。しかし今日では、このような底の浅い楽しみにもたれかかって、はじめて幸福をつかみ取ったと考えている人びとが、あまりにも多いのではないでしょうか。それはちょうど結婚式に呼ばれて、つぎ足されるぶどう酒の甘さに酔っているようなものでありましょう。お金や暇によって得られる自然の楽しみに酔いしれ、それを人生の本当の幸福と思い込んでいる人たちも、やがてはその幸福の底の浅さに気づき、むなしさと倦怠と不安に脅やかされるのではないでしょうか。
 娯楽やレジャーの過度の追求が、現代生活を残酷なものにしていると言われています。なぜなら、規格化されたレジャー産業の提供する安易なしくみの中で、人は完全に受け身となって自己を見失い、しだいに人間であることから遠ざかりつつあるからです。聖母マリアがキリストに向かって「彼らにぶどう酒がなくなりました」と告げたことは、その意味で象徴的です。宴会はたけなわだけれども、ぶどう酒は尽きた。すなわち地上的なもろもろの楽しみも、ようやく底をついたことを、それは予告するものではなかったでしょうか。
 人間は他の動物とは違って、欲望の充足だけで満たされるものではありません。それはやがて精神的な幸福への要求となって、真の生きがいを探さずにはいられないでしょう。そこでイエズスは「婦人よ、わが時はまだ来ていない」と一応答えたものの、やがて庭の方へ出て行き、下男たちに命じてカメに水を汲ませ、それをお座敷へ持って行くようにと命じました。ところがその水が、これまでにない芳醇な新しいぶどう酒に変化していた。
 これが有名なキリストの、水をぶどう酒に変えた奇跡と呼ばれるものであります。これを見て、その場に居合せた人びとは、イエズスを信仰しはじめたといわれています。このことは何を物語っているのでしょうか。聖書によれば、イエズスはわたしたちに、新しいよきものを与えようとして来られたことはたしかです。それは今われわれが味わっているあやうい自然の幸福ではなく、それとは断然類を異にしたすばらしい幸福だというのです。そしてそれこそ、永遠に朽ちることのない本当のしあわせ、すなわち自然をこえた神の恵みなのであります。
 マリアは古きぶどう酒の終末を告げることによって、キリストの新しいぶどう酒をこの世にもたらした、と言えるのではないでしょうか。そして、それこそ新しき酒を新しき皮ぶくろに盛るべきことを示すものであります。

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